4月15日 寒い夜と地動説
冬くらい寒いといえばうそになるけれど、やっぱり寒い。
バイトが終わって帰ろうとすると寒かった。小さめのパーカーのみでバイトに来ていたので後悔した。小さめのパーカーは中学校3年生のときに親に買ってもらったパーカーだ。嘘みたいに物持ちがいい。
実を言うともう別にかっこいいと思わないデザインをしているので本当は着たくはないのだけれども、着れるから着ている。中学校3年生のころからほとんど身長が変わっていないということなのかと思うかもしれないがそんなことはない。現に大学に入ってからも身長は5センチ伸びている。それなのに大学に入ってからも春にはこのパーカーを毎年着ている。
なんだか少し小さいように感じるそのパーカーは次の年の春が来てもなんだか少し小さく感じる。もしかしたらこのパーカーも少しづつ成長しているのかもしれいない。
だとすると僕はこのパーカーから一生逃げられない。
寒さに震えながら、原付に乗って家に帰った。空は赤から黒に変わる間の紫色をしていた。
家に帰ってボーっとしていたら、本屋に行きたくなった。なんだかあの本のにおいがかぎたくなった。こういうことはよくあることだ。本のにおいをかぐと気分がよくなる。なんだか子供のころを思い出すような感覚だ。
本屋についたけれど、小説を買うわけではなかった。マンガコーナーに行った。マンガが好きだからだ。
「チ。地球の運動について」
という漫画を買った。最新刊が3巻までだったということで全部を一気に読めるからという理由もあるが、一番はマンガ大賞第2位だったからだ。
日頃、あえて人気なコンテンツを避ける自分がこういうときだけはわかりやすい人気の指標に従って商品を選んでしまっていることに嫌気がさしたし、自分もまた単純な人間なんだということに気づいた。
そういえばぼくは中学校の時も嫌な奴だった。
人気のあるバンドは聞いてはいるけれど好きとは言わないようにした。
当時はワンオクロック、ウーバーワールドが人気だった。僕も二つのバンドは大好きだ。特にワンオクロックは全部のアルバムをゲオで借りてアイポッドタッチに取り込んだ。それでもみんなに好きだということは内緒にした。自分の内面に自信がないから、自分の好きなもので相手にかまそうと思っていたのだ。
「あいつはワンオクロックを聞かないで、○○を聞いているから変わっているな。」
そんな言葉が大好物だった。
何がいいのかもよくわからない、インターネットや掲示板で見つけたバンドの名前を出して、「知らないバンドだ。」といわれることで快感を得ていた。
ネットで受け売りの言葉でそのバンドを勝手に評価して勝手に分かっているようにふるまった。
本当に情けない奴だった。
最近は自分が好きだというものを自信をもって好きだといえるようになってきたと思う。それでもネットの評価を見てみると気になってしまうこともある。
自分の好きな音楽を自分が思ったように話す。こんな簡単なことができない自分が凄く嫌だ。
今でもたまに中学時代の自分が顔を出して、それを聞いているとかっこいいぞとか、センスがあると思われるぞとか、言ってくる。そういう自分を殴ってやりたいけれどできないのが僕だ。
漫画を買うときには出てこなくてよかった。
「これを買うと、こいつマンガ大賞のラベルを見て買うんだ、と思われるぞ。」
中学生の頃の僕ならこういうだろう。
家に帰って買ったばかりの漫画を惣菜を食べながら見た。春巻きだ。レンジで温めるのではなく、オーブントースターで温めたことで少しだけカリカリになってよかった。
「チ。」はすごくよかった。
よかったというか、すごいと思った。よかったという言葉は偉そうに感じるのですごかったということにしよう。
今では考えられないけれど昔は地動説ではなくて天動説が主流だった。聖書の教えでも天動説が主流とされるそんな時代に学者たちが自分の真理を見つけるために研究をするというものだ。当時では、聖書の教えに反する研究を行うことは異端だとされていたので、研究を行った研究者たちはひどい拷問や火あぶりの刑を受ける。
命を懸けてまで真理を見つけようと没頭する学者たちに心を奮い立たされた。
主人公がどんどん変わっていくのも驚いた。教会に見つかり、極刑を受けてもなお新しい研究者が魂をつなぎ、研究を続けていくことに今まで見たことないものを感じた。
現代ではこの世界のほとんどのことが解明されているから、自分が命を懸けてまで何かを研究するという気持ちは完全には理解できないのかもしれない。だから、一層主人公たちのように自分の将来をささげて真理を探ろうとすることに憧れた。
哲学が大好きな僕は大学の授業でも積極的に哲学を取った。学部は経済学部なのだが本当に人文学部にしておけばと最近は特に思う。
哲学について考えると人間には信じられるものが何もないということにいつもぶち当たってしまう。唯一の真理っていうものがこの世界にはないのだ。
自分の見たり、聞いたりするものが真理だっていうのはちょっと傲慢だと思う。
幻聴とか幻覚がある以上、今自分が聞いたり見たりしているものが本物だとは絶対に言いきれないのだ。
だから哲学者はすべてを疑う。
デカルトはすべてを疑う自分こそが本当に存在しているもの、つまりは真理なのだといった。
僕の大好きでそして本当に何を言っているかわからない哲学者はカントだ。
現代でいうエヴァンゲリオンだと僕は思う。難解で何が何だかわからないけれどなんだか惹きつける魅力がある。
そんなカントは真理はそれぞれの人や生物にそれぞれの真理があるといった。
人間と亀は世界を同じようには見ていない。
人間は世界を3次元的にみているが、亀は2次元的にみているかもしれない。
どっちが正しいとか、どっちが劣っているとかはない。
だって人間が今見ているものもはるか遠くの高知能生命体からしたら、すごく遅れている世界の見方なのかもしれないからだ。
なんだか何を言っているかよくわからないと思うけれど、とにかく自分には自分の真理があるからそれを見つけていこうってこと。
そういう点ではキルケゴールも僕は好きだ。
個人がそれのためになら死ねると思うもの。それこそが真理だ。
それを見つけるまでは僕は生きていこうと思う。どんだけみっともなくたって。
それはちょっと恥ずかしいけれど。丁寧に生きていきたいとは思う。
やっぱり夜は冬くらい寒いと思う。それは言いすぎだけれども。
もう変えてしまった冬用の布団に恋い焦がれながら、眠る。