鉄骨番長ブログ

好きなものを紹介したり、日々の日記を書いたりしています。水面のように穏やかに生きています。

4月15日 寒い夜と地動説

冬くらい寒いといえばうそになるけれど、やっぱり寒い。

バイトが終わって帰ろうとすると寒かった。小さめのパーカーのみでバイトに来ていたので後悔した。小さめのパーカーは中学校3年生のときに親に買ってもらったパーカーだ。嘘みたいに物持ちがいい。

実を言うともう別にかっこいいと思わないデザインをしているので本当は着たくはないのだけれども、着れるから着ている。中学校3年生のころからほとんど身長が変わっていないということなのかと思うかもしれないがそんなことはない。現に大学に入ってからも身長は5センチ伸びている。それなのに大学に入ってからも春にはこのパーカーを毎年着ている。

なんだか少し小さいように感じるそのパーカーは次の年の春が来てもなんだか少し小さく感じる。もしかしたらこのパーカーも少しづつ成長しているのかもしれいない。

だとすると僕はこのパーカーから一生逃げられない。

寒さに震えながら、原付に乗って家に帰った。空は赤から黒に変わる間の紫色をしていた。

 

 

家に帰ってボーっとしていたら、本屋に行きたくなった。なんだかあの本のにおいがかぎたくなった。こういうことはよくあることだ。本のにおいをかぐと気分がよくなる。なんだか子供のころを思い出すような感覚だ。

本屋についたけれど、小説を買うわけではなかった。マンガコーナーに行った。マンガが好きだからだ。

 

「チ。地球の運動について」

という漫画を買った。最新刊が3巻までだったということで全部を一気に読めるからという理由もあるが、一番はマンガ大賞第2位だったからだ。

日頃、あえて人気なコンテンツを避ける自分がこういうときだけはわかりやすい人気の指標に従って商品を選んでしまっていることに嫌気がさしたし、自分もまた単純な人間なんだということに気づいた。

 

そういえばぼくは中学校の時も嫌な奴だった。

人気のあるバンドは聞いてはいるけれど好きとは言わないようにした。

当時はワンオクロック、ウーバーワールドが人気だった。僕も二つのバンドは大好きだ。特にワンオクロックは全部のアルバムをゲオで借りてアイポッドタッチに取り込んだ。それでもみんなに好きだということは内緒にした。自分の内面に自信がないから、自分の好きなもので相手にかまそうと思っていたのだ。

「あいつはワンオクロックを聞かないで、○○を聞いているから変わっているな。」

そんな言葉が大好物だった。

何がいいのかもよくわからない、インターネットや掲示板で見つけたバンドの名前を出して、「知らないバンドだ。」といわれることで快感を得ていた。

ネットで受け売りの言葉でそのバンドを勝手に評価して勝手に分かっているようにふるまった。

本当に情けない奴だった。

最近は自分が好きだというものを自信をもって好きだといえるようになってきたと思う。それでもネットの評価を見てみると気になってしまうこともある。

自分の好きな音楽を自分が思ったように話す。こんな簡単なことができない自分が凄く嫌だ。

今でもたまに中学時代の自分が顔を出して、それを聞いているとかっこいいぞとか、センスがあると思われるぞとか、言ってくる。そういう自分を殴ってやりたいけれどできないのが僕だ。

 

漫画を買うときには出てこなくてよかった。

「これを買うと、こいつマンガ大賞のラベルを見て買うんだ、と思われるぞ。」

中学生の頃の僕ならこういうだろう。

 

 

家に帰って買ったばかりの漫画を惣菜を食べながら見た。春巻きだ。レンジで温めるのではなく、オーブントースターで温めたことで少しだけカリカリになってよかった。

 

「チ。」はすごくよかった。

よかったというか、すごいと思った。よかったという言葉は偉そうに感じるのですごかったということにしよう。

今では考えられないけれど昔は地動説ではなくて天動説が主流だった。聖書の教えでも天動説が主流とされるそんな時代に学者たちが自分の真理を見つけるために研究をするというものだ。当時では、聖書の教えに反する研究を行うことは異端だとされていたので、研究を行った研究者たちはひどい拷問や火あぶりの刑を受ける。

命を懸けてまで真理を見つけようと没頭する学者たちに心を奮い立たされた。

主人公がどんどん変わっていくのも驚いた。教会に見つかり、極刑を受けてもなお新しい研究者が魂をつなぎ、研究を続けていくことに今まで見たことないものを感じた。

 

現代ではこの世界のほとんどのことが解明されているから、自分が命を懸けてまで何かを研究するという気持ちは完全には理解できないのかもしれない。だから、一層主人公たちのように自分の将来をささげて真理を探ろうとすることに憧れた。

 

哲学が大好きな僕は大学の授業でも積極的に哲学を取った。学部は経済学部なのだが本当に人文学部にしておけばと最近は特に思う。

哲学について考えると人間には信じられるものが何もないということにいつもぶち当たってしまう。唯一の真理っていうものがこの世界にはないのだ。

自分の見たり、聞いたりするものが真理だっていうのはちょっと傲慢だと思う。

幻聴とか幻覚がある以上、今自分が聞いたり見たりしているものが本物だとは絶対に言いきれないのだ。

だから哲学者はすべてを疑う。

デカルトはすべてを疑う自分こそが本当に存在しているもの、つまりは真理なのだといった。

 

僕の大好きでそして本当に何を言っているかわからない哲学者はカントだ。

現代でいうエヴァンゲリオンだと僕は思う。難解で何が何だかわからないけれどなんだか惹きつける魅力がある。

そんなカントは真理はそれぞれの人や生物にそれぞれの真理があるといった。

人間と亀は世界を同じようには見ていない。

人間は世界を3次元的にみているが、亀は2次元的にみているかもしれない。

どっちが正しいとか、どっちが劣っているとかはない。

だって人間が今見ているものもはるか遠くの高知能生命体からしたら、すごく遅れている世界の見方なのかもしれないからだ。

 

なんだか何を言っているかよくわからないと思うけれど、とにかく自分には自分の真理があるからそれを見つけていこうってこと。

そういう点ではキルケゴールも僕は好きだ。

個人がそれのためになら死ねると思うもの。それこそが真理だ。

 

それを見つけるまでは僕は生きていこうと思う。どんだけみっともなくたって。

それはちょっと恥ずかしいけれど。丁寧に生きていきたいとは思う。

 

やっぱり夜は冬くらい寒いと思う。それは言いすぎだけれども。

もう変えてしまった冬用の布団に恋い焦がれながら、眠る。

 

今日の一曲

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4月14日 バイトに行く前

バイトに行ってしまうと思っていたことを忘れてしまうので先に書いておくことにする。

 

就活で使う写真を撮らなければいけないと毎回思う。

友人たちは写真館に行って撮っているらしいので僕も撮らなければと思う。

しかし、考えてみると、就職活動は自分のそのままをアピールする場なのに、わざわざ写真写りのいいものを選んで、それを使って就職活動をするということは少し矛盾しているような気がする。

こんなことを言って、百均の外にある写真撮影機を使って、通常メニューよりも少しだけ高い「美写真モード」で写真を撮る僕はどちらにも振り切れない、本当に中途半端な人間なのだと思い、悲しくなってしまった。

わざわざ写真館に行って写真を撮って「こいつ自分を少しでも良く見せようと思っているじゃん」と思われたくないというとてつもなく大きな自意識と、就職活動の常識から外れてしまうことへの恐怖というとてつもなく大きな同調意識への追及の二つを兼ね備えて持つ僕は、何もできずにずっと同じ場所に取り残されたままである。

 

写真館で写真を撮るという当たり前のことはできないのに、就活という大きなものに一丁前に文句を言うということはできる自分がやっぱり恥ずかしい。

こんな奴は就職なんかしないほうがいいし、どうせできない。

 

猫になりたい。

スピッツの歌にこんなにも共感できるとは。

猫になりたい。猫になって毎日日向ぼっこしたい。雨の日は屋内で音楽を聴いていたい。下北沢の猫になりたい。たくさんのライブハウスがあるから。気になったライブハウスにこっそり入って音楽を聴きたい。そして客の女の子に見つかって可愛がられたい。そのためにきれいな猫でいよう。ゴワゴワの猫じゃなく、フワフワの猫。魚はあまり食べないようにしたい。魚を食べると口が臭くなってしまうから。うちの犬は魚を食べすぎて海のにおいがする。海のにおいは生臭い。野菜ばかり食べる猫になりたい。公園では最低でも週2で体を洗おう。濡れた後は早く乾かないと臭くなってしまうので、晴れた日に体は洗うようにしたい。

猫になってもやることはたくさんある。

猫も大変なのかもしれない。

 

春、15時から16時までの間、家の近くではよく猫が寝ている。

 

今日の一曲

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4月14日 昼下がりとカネコアヤノ

今日はやらなければならないことが二つある。食材等の買い出しと就活の面接で大阪に行かなければならないのでその分のバス代の支払いだ。

 

就職活動しているとオンライン面接の企業がほとんどであった。オンラインならと軽い気持ちで出した大阪の企業は対面での面接を要求した。

他のしっかりとエントリーシートを書いて提出した企業は全部落ちた。

多分大阪の企業も落ちるのだから、落ちる企業になぜバス代2400円を払わなければならないのだと不満に思いながらも、面接をすっぽかす度胸がない僕はバス代を払うことにした。

朝、Spotifyを開くとカネコアヤノが新しいアルバムを出していた。

カネコアヤノはとても昼に合う。昼の散歩にめちゃくちゃ合う。

僕の中で散歩のテーマソングといえば、ジブリとなりのトトロ」でおなじみのさんぽではなく、カネコアヤノだ。

コンビニにバスの代金を支払いに行く必要があったので、カネコアヤノのアルバムを聴きながら歩いていくことにした。

暖かい今の時間にやっぱりカネコアヤノはよく合った。

バスの代金は2400円、持ち金は4000円から1600円に減った。

 

帰りにそのままスーパーマーケットに行こうとした。

しかし、今日使える10%オフクーポンを家に忘れてきたことに気づいた。家からスーパーまでは往復10分程度。10分程度の往復で10%安くなるのならば、僕はいったん家に帰ることにする。僕の何も意味をなさないような運動には後で安くなった分が対価として払われるからだ。

家に帰って、クーポンを取ってトイレに行った後にもう一度家を出た。

帰ってきたときよりもなんだか涼しかった。温度はほとんど変わっていないのに涼しく感じるのはなぜかわからない。

 

せっかく家に帰ってまでクーポンを取ってきたのだから、それに見合った分の対価をもらえるよう買い物をしようと思った。3000円を超える買い物をすると、300円安くなり僕が歩いて家に帰った分に、300円の価値があったことになる。しかしたった10分の運動で300円の対価があるのだろうかと考えてみる。よく考えたら持ち金が1600円なので3000円を超える買い物はできないと思い、少し恥ずかしくなった。

夜のご飯となくなりそうなバターを買った。少しでも対価の金額を上げるために、きのこの山とコーヒーと粉チーズも買った。

レジでクーポンを見せて、いくらになるのか見ていると、粉チーズが398円と予想以上に高かった。あんな粉末状のものが僕が10分歩いたことよりも価値があることが許せなかった。会計は最終的に1400円くらいだった。

 

家に帰る途中、汚い用水路で亀が優雅に泳いでいた。僕が見ているのに気付いたのかさっと潜って隠れた。僕だったら、あんなに汚い用水路を優雅に泳ぐことはできないと思った。亀は僕より強い。

よく動物を守ろうという人がいるけれど、それは傲慢な考えだと思う。

その発言の裏には動物は人間より弱い存在であるという考えが潜んでいるからだ。

僕は汚い川では泳げないが動物たちは余裕で泳ぐ。

僕は生肉を食べるとおなかを壊してしまうが、動物たちは食べても平気だ。

長く潜水することも僕はできないが、海の動物はみんな長く潜っていられる。

動物たちはみんな僕より強い。

そう思いながら、豚バラ肉しゃぶしゃぶ用を買っていたことに気づいて、豚よりはちょっと僕が強いと思った。でも1対1のタイマンになったときに豚に勝てるか不安なのでやっぱり豚は僕より強い。

もし世界から美味しい食べ物やきれいな場所がなくなってしまったら、人間が最初に死んでいくのだろう。贅沢ばかりしてきた人間は対応できないだろうから。

そういう時に動物たちがいうのかもしれない。

人間を守ろう。

 

家の帰りには小学校もある。ちょうど昼休みで子供たちが遊んでいた。ゴールポストの隅っこで座っていた昼休みを思い出した。

 

カネコアヤノのアルバムはちょうど家につくくらいに一周した。すごくよかった。

何度も聞くことになるだろうと思った。

 

今日も風が強かった。朝にセットした髪の毛が崩れてしまうことを恐れて前髪をかばって歩いていたが、あまりにも風が強かったのであきらめた。家に帰って鏡を見るとウルトラマンみたいな髪型をした自分がいた。

コーヒーを飲みながら、きのこの山を食べる。就活はしない。

 

今日の一曲

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4月13日 バイトに向かうまで

バイトに向かうこの時間はいつも憂鬱だ。

決まって予定の前になるとどんなに楽しい用事でも憂鬱になる。

約束しなければよかったと毎回思う。始まってしまうとそんなことは忘れてただ楽しくなる。不思議なものだ。

人間始めが肝心とはいうが、あながち間違いではないのかもしれないと思った。

終わりよければすべてよしという言葉もある。あれは間違いではないだろうか。

終盤までめちゃくちゃにやってた奴がいきなりまともになったら少し怖いし、別にそれで許す気にはならない。しかし、逆の場合正しくなる。終わりが悪かった時の場合だ。

終わりが悪いとなんだか全部悪かったように感じてしまう。かなり前のワールドカップでPKを外した駒野は試合中もしかしたら何度もピンチを救ったのかもしれないが、駒野が外したという印象だけが残っている。駒野は悪くないと思う。


そう考えるとやっぱり終わりも肝心だ。はじめも肝心だし、終わりも肝心。休んでいいのは中盤だけ。

これを胸に今日もバイトに行く。

まだ雨は強い。


今日の一曲


https://open.spotify.com/track/4NxwI0w1Gml5c05gYnE9wr?si=TSc_6S4JSiOLLbaMAl90HA



4月13日 午前というか昼

4月13日、起きるともう10時半だった。

この前、学校に行ったとき、最近は早く起きるようにしているというまったく意味のない嘘をついた自分が憎い。過去の自分のしょうもない見栄のせいで遅くに起きると少しの罪悪感を感じてしまう。

雨が降っていた。好きな天気だ。小学校までは天気は晴が一番好きだった。外でいっぱい遊べるし、なんだか気持ちがいいからだ。

中学校に入って雨が好きになった。部活が休みになるかもしれないからだ。

中学校の思い出はほとんど部活だ。何しろ休みがなかった。平日は水曜日以外毎日練習。土日は必ず試合。野球部を引退する3年生の夏まで僕は私服を買わなかった。

野球がそこまでうまくない、何なら下手だった僕はほとんど試合に出た覚えがない。

ずっとベンチで声を出していたか、バットを引く仕事やボールを拾って磨く仕事をしていた。ランナーコーチを任されていたこともあったが、何しろ下手なので自信をもって声が出せず、クビになった。野球部には嫌な思い出しかない。入ったばかりのころ、まだ元気があった。レギュラーになって試合で活躍したいと思った。初めての試合形式の練習でバッターボックスに入った僕は先輩ピッチャーの投げた球が僕に向かって飛んできたことに驚いてしりもちをついてしまった。しかしボールは僕に当たらず、アウトコースのストライクゾーンに入った。僕と変化球カーブの出会いだ。出会って3秒で僕の野球人生は終わった。アウトコースのストライクにしりもちをつくバッターなどにもうチャンスは来ない。それからは公式戦に出ていない。

練習をしてうまくなろうと思ったこともある。というか、練習をするときは毎回、そう思っていたはずだ。家での素振りの数を増やした。ノルマで課されていた300回では足りないと思い、500回素振りをした。週末に僕が試合に出るチャンスがあったからだ。

週末、1週間毎日500回素振りをした僕の手は皮がほとんど剥けていた。痛みでバットを持つのが精一杯で三打席三振した。

努力は裏切る。普通に。

あれ以上努力をしていたのなら、もっと手の皮がむけていたので努力はすればするほどこちらを裏切る。

野球がうまかった友達に練習内容を聞いた。

「これ内緒な。俺200回振るのめんどくさいから、50回しか振ってない。」

と彼は言った。

努力をするのをやめた。

それからは週末に降水確率が1%でもあろうならば、全力で雨ごいをした。テルテル坊主を何度も逆さに括り付けた。必死になって括り付ける僕をみて、親は何も言わなかった。

 

野球部を引退して何年もたつがいまだに雨が降るとうれしい。野球部の時は予定を立てることができなかったので、雨が降ると何もすることがなくて家でヒカキンゲームズを見るか、近くのゲオに行って映画を借りてきて見た。今でも雨が降ると映画を見たくなるし、ヒカキンゲームズも見たくなる。ゲームは全然やらないので、ヒカキンがやっているゲームがどういうゲームなのかはわからない。それでも雨の日には見る。

 

中体連といわれる中学校の最後の大会で僕のチームは2回戦で負けた。先輩は全国大会までいったので、信じられなかった。もちろん僕は試合には出ずベンチでレギュラーの選手たちに冷たいおしぼりを渡す係をしていた。

試合に負けた時、いつも僕と野球部を辞めたいなと話していた控えのやつが「ようやくやめれるな」といった。

そうだと思った。

うれしいと思ったのか、悔しいと思ったのか全く覚えていないけれど、試合後のミーティングで控え選手のうち僕だけが号泣した。

あの時のみんなの顔は忘れない。

「いや、お前出てないやんけ。」

「毎日やめたいっていっとったやんけ。」

今にもそんな言葉が聞こえそうだった。ていうか、聞こえていたかもしれない。

 

あの時どうして泣いたかはわからないけれど、なぜだか涙が出た。

野球部を引退した後は死ぬほど遊んだ。高校受験があったけれど僕は自分の学力よりも少し下を志望校にしてほとんど勉強しなかった。毎日、遊んだし、同級生が引退後もたまに部活に顔を出しているのに対して僕は部活動には一切顔を出さなかった。すごい楽しかったはずだ。

しかし、どれだけ遊んでも、部活が休みになったときに見たヒカキンゲームズを超えるようなワクワク感はなかった。どうしてなのかはわからないけれど。

 

今でも雨が降ると、中学時代を思い出して、ヒカキンゲームズを見てあの頃のワクワク感を得ようと試みるも、何も感じない。

 

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4月12日 午後

4月12日の午後は温かかったけれど少し風が強かった。

午前中うちに就活と僕が名付けただけの行為、つまりネットサーフィンとテレビを見ること、さらには読書を終えたので、昼からは完全なフリーとなった。

何をしようかと考えてみると朝からご飯を食べていないことに気づいた。大学1年生の時から、今までで五センチ身長が伸びている今が成長期の僕には栄養が足りないのは良くない。そういうことで少し早い夜ごはんを作ることにした。先日、友達とスパイスカレーを食べてとてもおいしかったことを思いだしたので、自分でも作ってみようと思った。

材料は種類が多く、そしてどれも少量でしか販売していないものばかりだった。こんなものを買う僕は相当料理が好きな人だと思われていると思うとレジに並ぶとき緊張した。案の定、家に帰ってから、トマトピューレを買うのを忘れていたことに気づいてもう一度スーパーへ行った。

初めてのスパイスカレー作りはとても骨が折れる作業だった。特に玉ねぎをあめ色にする作業が特に疲れた。玉ねぎを切るときとスラムダンクの最終巻を見るときは必ず涙を流してしまう僕は、もちろん今回も泣いた。

そうして完成したスパイスカレーはとてもおいしかった。これを自分が作ったとは考えられないほど複雑な味の組み合わせで作ることができた。

「米は固めに炊いたほうがいい」というさだまさしの関白宣言を忠実に守っている僕が炊いた固い米はスパイスカレーによくあった。こんなことは人生にこれから先にないだろうが、さだまさしに感謝した。

 

スパイスカレーを食べ終わると8時半だった。おいしくて何時間も夢中になって食べていた。8時半というと散歩に出かけたくなる時間だ。支度をして外に出ることにした。

 

外に出るとやっぱり風が強かった。先日購入した米軍がパジャマとして着ていたネイビーの服が風になびいた。これは僕の悪い癖でもあり、素敵なところでもあるけれど服を買いに行ったときにその服のバックボーンを知ってしまうと必ずと言っていいほど買ってしまう。現に僕が今日きている服は米軍のパジャマと下はイギリス軍の潜水艦の中の人が着ていたロイヤルネイビーコンバットパンツというものだ。アメリカ軍とイギリス軍の服を日本人が着るという戦時中になら即刻非国民扱いされる今日の服装だが、今の日本は平和なものなのでよかったと思う。戦争が始まってしまったら、この服が着れなくなってしまうと思うとやっぱり戦争は良くないものなのだと身に染みてわかる。

 

こういう風に言うと僕がまるでおしゃれであるかのように思うかもしれないが、間違いなく僕はおしゃれではない。先日の飲み会で酔っぱらってしまった僕はみんなに今日の自分の服がかっこいいことを自慢したらしい。誰もおしゃれだとは言ってくれなかった。また友達には僕が一番素敵だと思っている服を普通にダサいといわれた。

それ以来自分の感性は信じないようにしているけれど、やっぱり映画とかを見てボロボロの服をきている人を見るとかっこいいなと思って同じような服を探してしまう。

僕がほとんどそこで服を買う古着屋さんにもあまりなじめていない。米軍のパジャマを買ったときも店の一番前に飾ってあったこの服をみて、「こんなにかっこいい服、今日僕が買わなければ次来たときは売り切れてしまっていますよね。」といったのだが、あまり店員さんは反応しなかった。いつになったら常連みたいになれるのだろうか。

しかし、こんなダサい僕の服装をいつもほめてくれる人がいた。バイト先の先輩だ。その人は僕が着てくる服を見て、「いいね。これどういう服なの?」と聞いてくれて、水を得た魚のようにその服について説明をする僕の話を黙って聞いてくれた。そんな先輩も今年の3月でバイト先を辞めて社会人になった。先輩に見てほしかった米軍のパジャマは誰にも褒められず、春の風になびいたままだ。

 

散歩をしているといつも歩いている道に小さな神社があることに気づいた。軽く参拝をした。参拝をした後にこの神社はいったい何の神様が祭られているのかわからないのに参拝をしてしまったことに気づいた。もしこの神様が踊りの神様で大切な場面で踊りが止まらなくなるという効果を参拝した人に与える神様だったらどうしようと思った。就活の面接などで急に踊りだしてしまう僕を想像して恐くなってしまった。でも今のところ大切な場面が控えていることがないので安心した。

 

道の途中に倒れている茶色い子犬を見つけた。車にでも轢かれたのかと思い、急いで駆け寄るとマクドナルドの茶色い紙袋だった。「I’m lovin' it」と書かれた袋が僕を馬鹿にしていた。

「私はそれが好き」じゃねえよ!

神社に参拝したのに。マクドナルドに少しの怒りを覚えてしまった。

 

都会のほうでは歩道にデザインが施されている。おしゃれにしたいのかもしれないが、僕には文字通り足かせになる。なぜならば僕はいまだに白線を踏まないゲームなどを一人でやるからだ。当たり前のように白い部分を踏んだら死んでしまうというとんでもない罰ゲームを誰に強制されるでもなくわざわざ自分に課して、死に物狂いでゲームをまっとうする。途中で達成した時の成功報酬を考えていないことに気づいて、明日のバイトが休みになるという即興の報酬を用意した。成功しても明日のバイトが休みになるだけ、そして失敗したら死というカイジでもびっくりするような最悪のデスゲームを自ら作り出して参加する僕はカイジよりもよっぽどギャンブラーだろう。都会を一人、鬼の形相で不規則な歩幅で歩く僕はやっぱり変な奴だ。

 

家に帰って哲学の本を読む。

 

何もなかったような1日だったけれど文字にしてしまうと結構長く感じる。白線を踏まずに帰ることができたのに明日はバイトが入ったままだ。自分の心にいる利根川に文句を言いながら今日は眠る。

 

今日の一曲

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4月11日 栄のサウナ

こんにちは。鉄骨番長です。

 

栄の夜は僕の嫌いな人たちが集まる。栄に限らず嫌いな人が多い町はたくさんある。特に地元に帰ると嫌いな人ばかりだ。例えば家の近くでごみを燃やすおじさん。それだけでも嫌なのに、そのおじさんは勝手に人の敷地内に入ってきているのだから、ダメだと思う。僕の実家が田舎ではなかったら、本当につかまってしまうのではないかと思う。捕まってほしい。そんな僕の地元の話はもうやめておきたい。

話は戻って、やっぱり栄は嫌いな街だ。名古屋に初めて行ったとき、名古屋駅があるところが一番栄えていると思っていたのだが、みんなに聞くと栄が一番栄えているらしい。面白くないやつは「栄が一番栄えている。栄だけに。」なんてことを言うのも栄が嫌いな理由の一つである。また、栄にいる人が嫌いだ。なんだかうるさくて傲慢な気がする。そんなことを言っている僕も栄にいる間は栄という町の構成要素の一つである。となると栄が嫌いな僕自身でさえも栄の一部となっているという、支離滅裂な状況が生まれてしまうことになるのだ。本当に何かが嫌いなのならば、その構成要素にならないように気を付ける必要があるのではないかと思う。

そうはいっても名古屋に行ったなら、栄は必ず寄らなければならない。僕が服を買う店も本を買う店も全部栄にあるからだ。来るたびに嫌いになるこの町へ毎回のように来てしまうのは僕も栄という町に憑りつかれてしまっているということなのかもしれない。

 

愛知県で一番大きいとネットには書いてあった丸善という本屋の奥にサウナはあった。ウェルビー栄は本当に僕をWELL BEにさせてくれた。僕はダメなサウナにははっきりだめだという。もちろん心の中で。口に出して言う勇気がないからだ。サウナスパ健康アドバイザーという資格を持っている僕にまやかしのサウナは通用しないのだ。そんなたぐいまれなる”サウナ眼”を持っている僕にもウェルビー栄はすごく良いものに見えた。外から見ると小さく見える建物の中にはこの世のすべてがあった。女性が入ることのできない男たちの楽園の中では全裸の男たちが汗を流して死ぬ寸前まで己を高める。その光景は古代ギリシアで行われた、初代オリンピックのようだった。初代オリンピックは見たことないけれども、女人禁制であった初代オリンピックはほとんどウェルビー栄なのではないかと思う。初代オリンピックにサウナという競技があったのなら、代表選手はほとんど栄出身になるだろう。そして強豪国として何度も連覇するに違いない。卓球といえば中国。バスケといえばアメリカ。そしてサウナといえば”栄”。

そうしてたどり着いた”トトノウ”という境地は言葉にはできない心地のものなのだ。一種の研究によれば、整った状態では脳内に麻薬を摂取した時と同じくらいの幸福物質が出ているという。これ完全に僕が作り上げたデマなので信じなくてよい。

とにもかくにもウェルビー栄にはたまに行く必要があるかもしれない。嫌いな街である栄に少しでも好きな要素を作るためにできた施設なのではないだろうか。

 

ウェルビー栄は栄が嫌いな僕を栄に通わせ、そして、僕自身も栄に取り込もうとする悪魔の建物なのだ。それに気づきながらも、僕はまたウェルビー栄に足を運んでしまう。

 

サウナを出た後の夏とはまだ言えないほどの涼しい夜が僕は大好きだ。サウナを出た後は栄を愛することができる数少ない時間なのだ。

 

 

今日の一曲

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